「吹っ飛ばされてなんかないわヨ」
「でも、派手に尻餅ついてたじゃないですか」
「あれはちょっと油断したからよ」
「へぇ、油断ねぇ」
明らかに信じてはいないだろう相手の声に舌打。
「ちょっとシガナイ過去を思い出して気が緩んだのよ」
「へぇ、あんな状況で気を散らすような過去なんてあるんですか?」
「言ってくれるわね。アタシにだって意味アリな過去の一つや二つ」
少々ムキになって身を乗り出し、そこで大きく息を吸った。美鶴との攻防に我を見失いそうになった自分を取り戻したかのような雰囲気で、それは、突然夢から醒めたかのような、どことなく冷めた表情でもある。
買ってきたばかりのタバコを加えると、火を付けた。ゴミ箱に放り込んだマスクを一瞬見る。叩き落したサングラスはそのまま道端に放っておいた。
「あの子、アタシと同じかなって、一瞬思ったワケよ」
「同じ?」
「そ。あんなガキンチョの小娘と同類扱いされるだなんて不愉快だけど、でも、アタシもアイツも、自分の意思とは無関係に流れる潮流みたいなモノに飲み込まれて、気付いた時には荒れ果てた岸に一人で放り投げだされていた。そんなカンジ」
フーッと大きく煙を吐く。
「アタシ、女犯した事あンのよ」
美鶴の目が丸くなる。
「まだずっと若い頃、ずーっと若くって、まだこんな生活する前。見た目はまだ男だった頃。でも心は女だった」
突然過去に遡るユンミに、美鶴は困惑する。
普段はそんな事ないのに、ふと、誰かに話したくなるトキがある。誰かに聞いてもらいたいと思う時が、人間にはある。
弥耶との遭遇が、ユンミにそう思わせたのかもしれない。
「自分が男だなんて、どうしても思えなかった」
初恋も男で、でもそんなユンミを、家族は認めなかった。その点では、ユンミは理解されてはいなかったと言ってもいいのかもしれない。
「勉強に没頭すれば自分の不可思議な感情を忘れる事ができるのかもしれないって思って、ガムシャラに勉強した。だから成績も良かった。県下の有名私立校に進学した。でも気になるのは男ばっかで、そんな自分を恥ずかしく思った」
ユンミの感情に気付いたのは、担任だった。入学した時に一目惚れして、その感情に担任の方も気付いたのだ。
「先生は、きっと今思えば、善意で言ってくれたのかもしれない。アタシが男であるのか女であるのか、そういう問題ではなくって、ただ生徒からの好意を柔らかく断るつもりだったのかもしれない。君の気持ちは嬉しいが、僕には受け入れられない。そう言われた。アタシの事を、他にバラすでもなく、親に告げ口するような事もしなかった。でもあの頃のアタシは劣等感の塊だった。きっと自分はからかわれたのだ。男に恋する男など、気持ち悪いに決まっている。あんなふうに優しく笑ってくれてたけど、きっと心の中では嘲笑っていたのだ。なんて、アタシにはそんなふうにしか思えなかった。そんな醜い感情しか浮かばなかった」
思い出すと笑える。
「失恋した女が相手を逆恨みするのに似てる。ホント、アタシは性根の悪い女だった」
翌日から学校へは行かなくなった。ブラついているところを声掛けられた。誘われるがままにクラブへ行った。歓楽街、享楽街と言いたくなるようなところだった。
「アンタが慎ちゃん追っかけて飛び込んできたようなお店。怖かったけど、でもドキドキして、楽しかった。アタシみたいな男もけっこう居て、はじめて居心地がいいって思った」
やがて家には帰らなくなった。気にいった男に甘えて、酒や煙草に耽った。
「夢みたいな空間だった。でも、時々ふと、正気に戻る事もあった」
こんな事をしていていいのだろうか?
そんなユンミに、男が囁いた。
「どっちを選ぶんだ?」
「え?」
「男か? それとも、女か?」
男か、女か。
自分の心は、身体とはズレている。一致はしていない。そんな状態で一生を何事もなく過ごしていけるとは思ってはいない。たとえ、この享楽的な生活から抜け出し、どうにかして元の生活へ戻ったとしても、またいつか、どこかでは我慢ができなくなって、またこのような虚ろな世界へと逃げ込んでしまうような気がする。
ならば、女として生きるのか?
だが、それを決意するだけの勇気が、ユンミにはなかった。
家族も、学校も、すべてを捨てる事になる。そんな事が、自分にはできるのだろうか?
そんなユンミを、男が甘く誘う。
「じゃあ、女抱いてみる?」
「え?」
思わず、男の横に座る妖艶な女を見る。
「コレじゃダメ」
男は首を振り、さらに顔を寄せ、耳元で笑う。
「こんな女抱くのは、誰にでもできる。これじゃ自分を試す事はできない」
「試す?」
「そ、自分には女を求める欲情があるのか、それとも無いのか? 少しでもあるのなら、男として生きていける可能性もあるさ。男としての性欲があるんだからね」
男に言わせれば、人生と言うのは性欲に対する満足度合いでその善し悪しが決まるらしい。
「よく言うだろ。種族維持本能。人間だって、結局は子孫残す為に生きてるのさ。人生ってのは、いかに性欲を満足させる事ができるかどうかで決まるんだよ」
そういうものなのだろうか?
「だからさ、お前が女に対して性欲のカケラも持ち合わせていないんだったら、お前は男としては生きてはいけない。サッサと女になった方が幸せになれる」
「でも、女に対しての性欲だなんて、僕には」
「こんなぬるま湯みたいなところにいたんじゃ、あるのかないのかなんてわからないさ」
「じゃあ、どうやって?」
「だから、実際に抱いてみる」
「でも、さっきはダメだって」
「こういう、女の方からフェロモンバンバンに出してるそうな奴じゃダメだって言ってんの」
言われている意味がわかっているのだろうか。隣の女はただ楽しそうに聞いている。
「じゃ、じゃあ、どういう?」
「フェロモン出してない奴に決まってんだろう」
それでも首を傾げるユンミの、肩をグルッと抱く。
「無理やりに、な」
目の前のグラスを眺めたまま目をパチクリとさせていたユンミは、やがて理解し、身を強張らせた。
「それって」
「何? 怖い?」
挑発するような瞳。
「俺は別にかまわないんだぜ。お前がこのまま男でも女でもなく、宙ぶらりんと生きていく事になったって、俺は痛くも痒くもねぇ。ただなぁ、まぁ、この世界にお前を連れ込んだ一人として、悩めるお前の役には立ちたいってワケよ」
抱いた肩をポンポンと叩く。
「どちらで生きていくのか迷ってんなら、それを決める手伝いくらいはしてやってもいいよ。それが友だ。そうだろう?」
後で冷静になって考えてみると、頭を捻りたくなるような理屈。でも、その時のユンミには、甘くて魔法のような言葉だった。悩める自分を救ってくれそうな人には、どんな人にでも縋りつきたかった。だから、そう言われると、そんなような気もしてくる。なにより彼は、いつもユンミには優しい。悩めるユンミに心地よい空間を紹介し、彼の心にも理解を示してくれた。担任のように、自分を突き放したりはしなかった。
ならば、彼を信じてもよいのかもしれない。
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